第一期塾生最終レポート

尾﨑真理子 深村誠 K O 堺勝信 川本史生


尾﨑真理子

▼自らができること、日本のこころを持ち続けるためには

約8か月の間で学び・気づいたことを自分一人のこころに留めておかないこと

子どもや親戚、友人 身近なところで広めていくことが自分の使命

〇なぜ?

今後日本を支える子どもたちが世界で活躍していくために必要な“日本的教養”が

自然とこころに宿り正しい判断ができる人になってほしいと願いを込めて、

他者や自分を育てていくことが日本人として重要と考えるため

 

▼具体的関心事項

地域社会の関係が希薄になる中で、「子どもを地域で育てる」「周りの大人が一緒に育てていく」といった寺子屋のような考え方をより身近なものとして捉えられることはないかと考えた

そこで浮かんだものが、「児童館」や「学童」等の教育とは違った“子どもを育てる場”であり、ここでどのような取り組みをしていくべきか興味を持った

 

▼子どもたちはどのようなことから日本的な教養を感じることができるか

①伝承あそび

②四季を感じる食べ物

③日本的な行事

①伝承あそび

日本の伝統的な遊び=年齢、性別関係なく遊べること

特にマニュアルなどはなく、大人が子どもたちに言葉で伝えてきたもので、生活の中であるものや自然のものをつかうことにより、創造する喜びや他人を思いやる心、社会性やコミュニケーションの方法を育てる学びがある

より具体的には、「うたって遊ぶ」「はしって遊ぶ」「つくって遊ぶ」など

②四季を感じる食べ物

五感をつかって楽しむ料理をどれだけ経験できるか

「冬になったから〇〇が美味しいね、だからこの〇〇をつかった■■のお料理を食べようね」と会話が広がる また食事のマナーを通じて日本的礼儀作法を学ぶ場になる

③日本的な行事

七五三やお正月など有名なものから「冬至」や「彼岸」など、日本文化と行事を学ぶことで日本の歴史を知ることができる

→これらは「教育で学ぶ」ではなく「人が人に伝承していく」ことが重要

 

▼私が考える今後の夢(ビジョン)

今後の日本を支える日本の子どもたちには、主体的、対話的な学び方をしてほしいと切に願う 

まさに「アクティブ・ラーニング」は、寺子屋の教育そのものだと感じた 一方的に教師の授業を聞くのではなく、同じ教室にいる仲間たちに教えてもらったり、教えたりしながら生徒たちは主体的に学んでいた こうした学びが明治維新以降に優れたリーダーを排出したり、西洋から入ってきた文化を理解したりすることに役立ったのである

寺子屋のような教育機関がもっともっと増えていくことを願う

いつか自分も微力ながら子どもたちへ伝えていく手伝いをしたい


深村誠

この塾に参加させていただき、「日本のこころ」が自然を克服し利用する対象ではなく、共に生活し、共に存ることを基本にした価値観であることを再確認しました。その結果として、グローバル化が進む現代においてこそ、この「日本のこころ」を世界に輸出する必要性を強くしたところです。ではどのようにして「日本のこころ」を輸出するかというと『小倉百人一首』を現地語化するという方法です。

 

『百人一首』を現地語に翻訳することはそんなに難しいことではないと考えます。どこの国にも自然に関わる言語は存在するはずです。第一段階は直訳で充分です。現地語の特長を生かしながら、翻訳可能な現地語を探してもらう。日常使っている言葉を見直すきっかけともなるし、埋もれていた言葉を再発見する機会にもなるでしょう。そのうち直訳だけでは満足できず、韻や反復といったリズム感を意識するようになり、縁語や掛け詞といった修辞法も意識するようになる。終いには自分の歌を創作したいという意識に発展するはずです。

 

ではなぜ『百人一首』かというと、3つの理由があります。1つは短歌が「三十一文字」と呼ばれるほどの短詩形式であるということ。2つめは自然を題材にした歌が多いということです。3つめは『百人一首』が、日本の古典文学、中でも歌集としての完成形であるばかりでなく、かるた取りに代表されるように遊戯としての付加価値も備えているからです。

 

藤原定家(1162~1241)による『小倉百人一首』は、飛鳥時代から鎌倉時代初期までの100首を、『古今集』から『続後撰集』までの勅撰和歌集から選んだとされます。恋の歌に次いで多いのが自然を詠んだ歌32首です。

 

日本には明確な四季があり、四季折々の美しさや風物を生活の中に取り込みながら、繊細で豊かな感性を育んできたといえます。時候や自然現象を表現する言葉の多彩さは他の言語に類を見ません。そのうえ荒々しいものや奇抜なものは含まれていず、優美なものに限定されていることです。この傾向は、飛鳥の時代から定家が生きた鎌倉時代前期の約600年をかけて日本人の美意識として形成されたといえます。それが伝統となり今に及んでいる。現代日本人の美意識は、飛鳥の時代から脈々と受け継がれてきているといえるのです。

 

『百人一首』の現地語化というのは、どの国・地域にも狩猟採集時代には、自然を畏怖し、自然と共存していた時期があり、自然に対する本能的ともいえる憧憬があると考えるからです。現地語(母国語)の作業を通して、自然をより細かに観察し、言葉を使い分けたいという欲求も出てくるでしょう。その過程で、忘れかけていた自然への共感能力を復活させることができるのではと期待します。また、歌にはリズムがあり色彩感があります。全ての国・地域の人々が身体感覚で魅力を感じるはずと確信します。

 

 『百人一首』の現地語化作業では、日本の習俗などを説明する場面も想像されます。和服の機能性と自然を取り込んだデザイン、和食の素材を生かし彩り豊かに盛り付ける繊細さや和食器の精巧さ、中世以降の武士道や芸能に代表される礼儀や勤勉さ、歌舞伎や俳諧に見られる娯楽性や諧謔性いった日本文化の全体像を紹介することができます。

 

 「日本のこころ」の先に「誰一人取り残さない世界」が見えてくるように思います。


K O

これからの「世界・社会」が直面する大きな課題は、いずれも「分断」という言葉で表されると思います。つまり、政治的世界においては、ご存じの通り、米国を中心とする民主主義を標榜する世界と、中国・ロシアが代表する強権国家が対峙していく趨勢は止められないように思われます。一方、我々をとりまく世界(社会)も、情報のサイロ化(格差)による分断が進んでいるように見受けられます。インターネットの発達に伴い、人々は自身の好む情報だけ収集するようになり、Webサイトのリコメンド機能でさらにそれは純化されていっています。人々の考えは両極に広がりつつあり、その接点がますます交わらなくなっているのではないかと危惧しています。

 

そのような世界・社会において、日本人の寛容かつ融和的な精神は極めて貴重なものだと思われます。日本の歴史を翻ると、例え敵対する勢力であっても、徹底的につぶしたり、根絶やしにしたりはしてきませんでした。明治維新がその顕著な例だと思われます。政治的な分断でも社会的な分断でも、他者に対する寛容さを持ち続けることができれば、最終的な破局は回避できるはずです。

 

しかしながら日本人は一方で、民族的な排他性を強く持っています。国内でも朝鮮人やアイヌに対する差別や偏見は根深く残っており、特に残虐性を表すこともあります。つまり日本人の寛容さは、残念ながら同胞たる日本人同士だけで成り立つものなのかもしれません。

 

日本のこころが、今後世界の分断を癒す役割を演じていくためには、我々の寛容さや融和の精神をさらに昇華し、グローバルレベルでの同胞意識に高めていく必要があると思っています。そのためには学校教育の段階で、日本的情操教育を深めていくと同時に、諸外国との交流を日常的に促進することによって、グローバルな感性を身につけていくことが重要であると思っております。

私は現在、会社勤めの一方、母校の理事会の評議員を務めています。息子も在学することから、保護者会の会長も務めており、学校教育に関わる時間が増えております。学園のドクトリンでは、「世界に開かれたリベラルアーツ&サイエンスの学園」となることをうたっております。これは100年前の創立以来の本校の理念を、現代的に再確認したものです。

 

私がこれから取り組めることは、母校のリベラルアーツ教育に対し、様々な形で提言し支えていくことだと思っています。今回私が自啓共創塾に応募したのは、日本型リベラルアーツにたいする理解が少しでも深まればと思ってのことでした。私は講義を通して様々な方々のご意見にふれ、素晴らしい刺激をうけました。その中でも、第13回の講義は非常に示唆に富んでいました。日本で最近はやりのリベラルアーツは、どちらかというとサイエンスに寄っており、東洋でいう「小学」の素養が足りないということがわかりました。特に音楽の素養が、人間的成長を促していく上で、非常に重要な要素であると理解しました。今後機会があれば、学園へのアドバイスとして、日本型リベラルアーツを推奨すると同時に、音楽関係の講義を取り入れるサポートなどできていければいいなと思います。

 

この度は、貴重な講義に参加させていただき、誠にありがとうございました。


堺勝信

『世界のための日本のこころ』の在り方

 

①あらゆる対立構造(×)を包摂し調和・共生(〇)へ

「日本のこころ」とは、古代以前からの独特の風土・自然の中で育まれてきたアニミズム的な要素を含む多神教である古神道をベースに、仏教や儒教と習合して形成された霊性を核とした、日本人の生活観、社会観、世界観を支える人格の基礎である。

 

また、河合隼雄著『中空構造日本の深層』によれば、天と地、海と山といった二項対立的な神の間に何もしない無為の神がおり、三神の組み合わせ構造によりバランスをとれる形になっている。この中空構造ゆえに、一神教・二元論的な思想に対して、あらゆる二項対立を包摂できる可能性を強く秘めている。

 

①人間×人間(生産者×消費者、従業員×顧客、男性×女性、若者×高齢者、白色人種×有色人種、国籍、民族、宗教/信条、社会的地位、性的指向・性自認、価値観、働き方等)、②人間×自然、③文化×文化(都市×地方、西洋×東洋、先進国×発展途上国)といったあらゆる対立構造ではなく、それらを両立・調和させていくことが重要である。

 

特に「地球環境の危機」と「生命科学の進展」に対する「日本のこころ」の表出として、「風の谷のナウシカ」の世界観・問題提起はかなり深い。核兵器により穢れた地球とそれに適応するために遺伝子操作された生態系。人工的につくられた「いのち」も含めてそれを包摂する自然。憎しみよりも友愛、対立/分断よりも共生。これからの世界・社会の在り方として、調和・共生という方向を目指すのはMustである。

 

②Back to Basics: "自然の摂理"に従う縄文文化・アイヌ文化の価値の再発見

欧米では個人主義がベースとなり「自由」が大事な価値観となっているのに対して、日本においては「自然」が大事な価値観となっている。どのような”理(ことわり)”が世界共通の価値観になりうるかを考えた際に、”論理”では前提となる公理の善悪の議論には答えられない。”倫理”も、個々の宗教・倫理観を包括するメタ倫理的な共通の価値でないと世界的な合意は得られない。”自然の摂理”というのは世界中の先住民族の知恵に共通するものであり、見直すべき価値観なのではないだろうか。

 

自然や環境との調和、共存を図り、対人武器を作らず戦争を避け、女性・母性を尊重し、富の公平な分配と平等を重視する社会を、継続し維持できた縄文文化。そして、アイヌ文化も、農耕文化による余剰→格差のない狩猟文化であり、(蛇足であるが余剰を記録するための文字がなく、)自然(天・地)と社会(人)の調和がとれたサステナブルな状態、かつ足るを知る精神的にも非常に豊かな文化である。

 

限りある資源を収奪し続ける現在の資本主義の価値観に対して日本が誇れるものは、この縄文文化・アイヌ文化である。京都の龍安寺の蹲踞(つくばい)にある「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)という「分度」につながる精神と、日々の生活を楽しみながら自然と共生する知恵の価値を再発見することによって、日々の生活をより豊かさに幸せに生きられるのではないだろうか。

 

③「分度・推譲」による経済+道徳の社会変革

二宮尊徳は、「勤労・分度・推譲」の「報徳仕法」により経済的にも精神的にも豊かになる地域改革を実践し、かつそこで確立した方法論を他地域に展開することによって国家を斬新的に改革することを目指した社会変革者でもある。富国安民というビジョンに向けて、実に35もの地域での仕法を進めた。

 

「報徳仕法」の中で特に着目すべきは、「報徳冥加金」である。「報徳無利息金」によって「支えられた者」が義務ではない冥加金を推譲することにより他者を「支える者」になる、という経済的にも精神的にも豊かになる方法を示している。個人としてはペイ・フォワードもしくは利他の一つの形であり精神的な豊かさに通じるし、社会全体としては経済的にも精神的にも豊かな人を増やすための仕組みである。

 

④ウェルビーイングとサステナビリティーの両立と数学的帰納法

自分自身の幸せの構成要素は①健康、②人間関係、③趣味である。毎日、健康のために8000歩以上歩くため、妻と近所の公園をおしゃべりしながら散歩している。散歩しながら手持ち無沙汰でゴミ拾いをしていたら、色んな人が挨拶をしてくれて話すようになり、一緒に花鳥風月を愛でるようになった。また娘とピアノを連弾したり、この自啓共創塾をきっかけに合気道の道場に通いだしたりもして、日々の小確幸を実感している。

 

また個人の消費者としては、サステナブル資本主義を意識して、コンポストをつくってみたり電力会社をハチドリ電力に切り替えたりしたが、今後もモリウミアスを応援したりサステナブル投資につながる消費行動を楽しんでいきたい。

 

そして社会人として仕事という生産行動においては、クライアントの経営課題が社会課題とアラインしてきている中で、Financialの観点だけでなくSustainabilityやInclusion & Diversityといった観点のKPIも含めた360°Value Meter(〇)を設定して、クライアントの経営課題を解決することで、その先の社会課題も解決していきたい。

 

ところで、数学的帰納法は証明の手法の一つで、自然数に関する命題 P(n) が全ての自然数 n に対して成り立つ事を証明するために、①P(1) が成り立つ事を示す。②任意の自然数 k に対して、「P(k) ⇒ P(k + 1)」が成り立つ事を示す。③1と2の議論から任意の自然数 n について P(n) が成り立つ事を結論づける。というものである。

 

自分のビジョンとしては、最大多数の幸福(ウェルビーイング)とサステナビリティーが両立する未来をつくりたいが、P(1)は自分自身の実践により成立する(と、言いたい)。P(k)が成り立つ際に、「分度・推譲」により経済的にも精神的にも豊かな人を増やすことができ、P(k+1)が成立する。よって、P(世界の総人口約80億人)においても幸福(ウェルビーイング)とサステナビリティーが両立する未来が成り立つ、といえよう。

 

世界的なサステナビリティーという課題に対して、「課題解決先進国」として世界に先んじて、自然と共生する形で各自が精神的にも豊かに幸せに生き、そしてそのような人を増やす。それが、「世界のための日本のこころ」の一つの在り方なのではないだろうか。


川本史生

まず背景を共有します。私は小学生の時からプログラミングをはじめ、高校生の時からAIについての勉強を始めました。私は機械学習のような「弱いAI」を仕事で使いつつ、興味の対象は昔から「強いAI 」について考えることにありました。人が考えるとは何か、よりよく理解したい、という主観的な方向と、脳の機能についてよりよく知りたいという客観的・脳神経学的な方向から勉強を続けています。知能とは何かを議論するためには哲学の知識が必要で、大学のころから主に独学で西洋哲学の勉強もしていたのですが、三宅陽一郎氏の本でも言われているように西洋哲学・ロゴスに基づいたアプローチだけでは限界があり、東洋哲学の空・道・混沌といったアプローチも必要と考えています。今回自啓共創塾に参加して、参考資料を読み話題提供の方の話を聞いているときも、それをAIにどう関連付けられるかということを常に考えていました。

 

私が実装可能性を調べている、(強い)AIが考えるとは「内面世界観を持ち、主観的に決定・判断をする」というように言いたいのですが、これだけでもいかに挙げるようにまだまだ疑問が多々あり、学びは当分続きそうです。

●“考える”を人以外に適用するとはどういうことか?言葉のフレームを拡張して意味がなくなるのではないか?ref. 潜水艦は泳げるのか?

●主観的な現象をどう認識するのか。計測するとそれは所詮客観データではないか。

●決定・判断をする必要はなぜあるのか?生存のための基礎欲求、人間の側頭葉の機能を組み込むのか?

 

どのような世の中にしたいかという点についてですが、まず私の感覚では「世の中そんなに悪くない」と考えています。昔と比べると、生活水準、技術環境など、総じて良くなっていると思います。過去のピンポイントの現象を指してあの頃はよかったという話は、世間話としてはよいかもしれませんが、現実にはその時点での生活環境・情報水準など、相当悪いけどいいの?と考えてしまいます。数年前に流行った『Factfulness』の影響もあるかもしれませんが、悪いことにより大きく反応するのはプロスペクト理論などでも言われる人間の本能でありそう感じて反応するのは生存のためには必要なのかもしれませんが、情報過多な時代にそのためにやたら悲観的になっている人を見ると気の毒に感じます。社会問題も、最近悪化したというより、常に考えるべき社会問題は存在しているので、時代を超えて比較するのは、言語構造や価値・社会構成がそもそも違うのに、果たして比較することにどんな意味があるのかと考えてしまいます。それを現在の言語や基準であえて比較すると、恣意的に現在が色々悪化しているとかなんとでも言えるような気がします。それぞれの時代に取って重要な問題がある、というので十分ではないかと思います。例えば差別・格差などは、どの時代でどの程度言語化されていたかも大事で、まず言語化されなければ認知されず直接歴史にも残りません。

 

AIというと定義がモヤモヤしてしまうので、 弱いAIを含めてソフトウェアという言葉を私は使いますが、ソフトウェアによってより便利で効率化された世の中を私は期待しています。このソフトウェアが新たに導入されるということは、新たな言葉を含めて環境が変わり続けることになると思うのですが、人の脳は基本的に、安定してあまり頭を使わないですむ世界に快の感情を持つと思うのですが、これに適応するというハードルをこの多様性のある世の中でより優しく行えるような、優しいソフトウェア、優しいAIのようなものの整備が今後必要だと思います。この優しさは言語レベルでの対応も必要だと思うのですが、適度に曖昧さを持った日本語が、この点で参考になるかもしれません。ソフトウェアによる効率化に関連して言うと、「AIに仕事が奪われる」ではなく、「(弱い)AIでさえできるような単純な作業を人間がしなくても良くなる」と捉えます。

 

本塾に参加したことで、リベラルアーツについてよりよく学べたと思います。私なりの解釈としては、これは「自由に考えるための教養」であり、自由に考えるとは、価値の軸を持ち、人に与えられたり、どこかから持ってきた劣化コピーのような価値観ではなく、自分の価値観を持ちそこから発想し決断することになります。このように自らの軸をもって決定するということは、そもそもリーダーに必要不可欠なものではないでしょうか。このようなバランスの良い教養を持ったリーダーが、意思決定を行う世の中が良い世の中なのではと思います。リーダーだけに教養があっても問題で、やはり市民がリベラルアーツを身に着け、リーダーを選び、応援し、行動する。そのような世の中でないと、偏ったり、変に煽られて極端な行動をとる社会になってしまいます。今回のパンデミックで、そのような負の面が日本に限らず見られたような気がします。このような教養を使いこなしつつ、日本のこころでも何度も話題になった禅や利他、和の考えに慣れ親しむことで、相互に助け合うことのできる社会・文化が構成されると思います。

 

これから行いたいこととしては今回塾で学んだことを(主に強い)AIについての勉強に取り入れていきたいと思います。細かく言うと長くなるので箇条書きにすると

●思考の生じる場としての時とは、現象学的、デリダの差延、道元の有時、縁起ある意味超ひも理論的な点から考える

●人が認知する世界、超越論的主体、自分を構造化して想像しているレイヤーが上位に存在、前頭葉機能など考えられるがそれがどのように機能しうるか

●認知内、言語化された世界では論理がとても強力だが、認知外の世界では、日本のこころが役立つのでは。臨在感的把握、阿頼耶識、混沌、道など

●AIを個人レベルの機能・現象と制約する必要はあるのか。文化・社会レベルの機能・現象がAIであるとはいえないのか

●言語のタブローは人間のために構成されているが、コンピュータプログラムより成るAIが言語を構成する場合、人間に準じる必要はないのではないか。言語化、記号で表せる世界の限界、人の創発、知識創造のプロセスは、AIではどのように記述されるのか。

●一神教ではなく多神教ベースの世界観でもAIを考える。AIにとっての真善美とは、倫理とは、責任とは

リベラルアーツの重要性を考え、歴史・芸術・哲学・科学をバランスよく学ぶことの重要性を、これからの社内教育で広めていきたいと考えます。自啓共創塾のフォーマット自体がとてもよくできていると思います。予習した内容についてお互いが意見を発表しあうというのは、学習効果が非常に高いと思うので、こちらも社内で広めていきたいと思います。

 

個人的には禅・マインドフルネスは以前からストレスコントロールのために行っているのですが、これらについてはより深く学ぶ価値があると塾で思いましたので、Zen2.0のようなカンファレンスをはじめ、より接する機会を増やしていきたいと思います。昔親に茶道を教わってすぐやめたことがあったのですが、塾でたびたび「OO道」の話が出てくるたびに「あの時もっとやっておけばよかった」と思っていました。道具はそろっているので、来年は茶道をまた始めようと思っています。

 

最後に、今回の塾に参加できてとても幸運だったと思います。これまでなんとなく考えていたけれども言葉にできないことが多くあったと思うのですが、グループダイアログを通じて自分の考えを言葉にする脳筋が鍛えられたと思います。惜しむらくはコロナのために、ほかの塾生の方たちと直接会う機会がなかなかなかったことです。この塾生同士のつながりもこれからの財産になるのではと思います。総じてこの越境的学習のお陰で、『LIFESHIFT』がいうところの"変身資産"がだいぶ増えたと思います。