第一期塾生最終レポート

堀越勝 石垣清香 尾崎士朗 番匠友恵 渡辺文隆


堀越勝

問題意識(現代社会の豊かさを支える光と影、20世紀の価値観の修正)

 現在、我々が常識として無意識にみにつけている価値基準は、その時代の背景の中で培われて定着してきたものです。それは歴史的にはヨーロッパの市民革命や近代化から始まり20世紀にかけて世界に広がりました。日本では明治以降の近代化の中で意識的あるいは無意識的に受け入れられたもので、その本質は物質的豊かさと自由という価値にくくることができると思います。自由という価値は個人を権利主体として尊重する考え方を基本にするため、それを基本にした生き方は個人という存在を重視する生き方につながります。そして、それが集団となったときに結果として個別の価値を優先する個別価値優先志向の自由主義社会を形成することになります。個人の自由が拡大され場合によっては肥大化しました。私は、自由を主体にする価値は一方では人権という意味においてよいと思います。しかし、個人的存在重視の価値観は、自己中心的な思考にもなり、人と人の関係性、より大きな枠組みからという視点を薄れさせる問題が同時に存在すると考えております。

 この個別価値優先志向は、地球規模の視野からみると、国家、民族、政治、企業などあらゆる人間の集団に表れています。具体的には、米中の国家問題、ロシアの民族紛争、企業も目先の個別価値(自分の価値)を優先させて、総合的で長期的な視点からの地球規模の問題の解決を放置し先送りしにしてきました。ですが心ある人々の心の奥底では、確かに現代社会は豊かになって自由ではるが、本当にこのままでよいのか、何かもっと大事なことを見失っていないのか、というような疑問が生じてきていたのではないでしょうか。近年、SDG’sが広がってきているのは、この20世紀の「物質的豊かさと自由」の偏重した拡大に対する修正の流れが現れてきたのではないかと考えています。

 

日本のこころはどう貢献できると考えるか

 新しい時代には個別価値優先から共存・共創を志向する新しい価値への転換が鍵であり、人類一人ひとりが「どれだけ長いきするか」よりも「どう生きるか」が重要で問題です。その生き方の方向性を決める際に大きなヒントとなり基本になるのが「日本のこころ」です。自啓共創塾で「日本のこころ」を実践知として学び、多様な世代が参加するワークショップの語らいから、自身の空間的な役割認識と時間的な役割認識が醸成されます。空間的な役割認識というのは、自然・社会・文化の創造と発展、サステナビリティの実現のために個人や組織がどのような使命や役割をもち、役立つことができるのか、という認識です。そして、時間的な役割認識とは、現在と未来に対してどのような使命を見いだし、どのような役割を果たすことができるのかという認識です。過去からの価値観や文化を受け継ぎつつ、それらを新しい時代にあわせて進化発展させて引き継ぐ、次世代に残していくという認識です。

 

自分がこれから、または、将来取り組んでみたいこと

 20世紀の価値観「個別価値志向と自由」の修正をする新しい学びと普及の場である自啓共創塾「日本のこころ」を糧にして、自分自身の展開する経営リーダー育成・教育活動、及び人との対話の中にいかしていきたいと思います。


石垣清香

 個人の存在や行為そのものが価値のあるものであると認知され、感謝や幸せといったポジティブな感情が循環する社会を目指したい。

 経験的で豊かで深く広い、日本のこころを学ぶことで見えてきたのは、現在の個々人の生活における価値観が、仕事と家族(核家族内での結婚、子育て)に集約しすぎていて、それ以外の要素については、意識すら置かれていないのではないか。絞られていることにより、逆に生きづらさに結びつき、こころの豊かさを失っているように感じる。仕事、家族以外の個々人の社会での役割や多様な要素をもう一度評価できるような思考のクリエイティブさが必要であると考えている。すでに新しい働き方や生き方を実践している人は多いが、それでも「働き方」とか「新しい家族像」と言った現在の枠組みの中でのアップデートにすぎない。その人の存在や行為自体が与えるポジティブな要素は他にもあるのである。娘であること、友達であること、自然を感じていること、暇であること、試練に立ち向かっていること、修行していること、趣味を楽しんでいること、それ自体が価値なのにも関わらず、現在の経済的価値に直結しないものは社会の中でまるで評価されない。少なくともそのような気持ちにさせられている。

 デンマークでいえば、ヒュッゲという独特の価値観が大切にされるが、より個々人それぞれ特有の価値観がより認められる社会でありたい。日本人が古来、実はほがらかで、おしゃべりな人たちと見られた時代もあったのである。豊かで曖昧で許容範囲の広い日本のこころは、これ、と端的に表せない良さがあるのであり、個々人の存在や行為自体、その中で感じたことが大切にできる社会であるべきだと考える。

 私のこれからの挑戦は、評価もしなければ評価もされない、ただ目の前にある行為に没入し、自分の心が満たされ、周りを幸せにできる活動を展開していきたい。

 今までの市場原理であえて動かないことが問題提起になるだろうと考える。創造すること自体が資本となり、創造すればするほどその資本が増えていく=幸せが増えていく、ようなコミュニティを作ろうと考えています。

 現実的には、資本主義の中で生活していかなくてはならない。その中で生きなくてはならない時間を減らしてみること。そのようなコミュニティに属してみること、創造してみることで、変化を起こしていきたい。


尾崎士朗

国語力 -アイデンティティ復興への出発点-

 

本塾に加入した背景は、「日本人のアイデンティティ」について噛み砕いて説明できない自分への歯がゆさであった。

 

私は、幼少期はずっと日本で暮らし、小学校高学年に2年間、父親の海外赴任に伴い英語圏での生活を経験させてもらった。その際有難いことに日本人学校に通わせて頂き、日本で行われているそれとほぼ変わらない初等教育と、入門レベルの現地英語教育を受けることが出来た。中には、現地での生活が日本の生活よりも長くなっている子や、10歳足らずにして既に英語がペラペラの子(逆に日本語に難あり)など、通常の日本の公立校にはいない様々なバックグラウンドを持つ同級生と多く接することが出来た。その後は日本で中高大社会人と生活し、8年前に自らの意志でベトナムに飛び立ち、現在に至るまで当地で仕事をしている。図らずも人生の3分の1近くを海外で過ごさせてもらっている計算になる。

 

「外国で暮らして初めて日本の良さが分かる」や「海外赴任をして初めて異文化を理解できる」という海外生活者に耳障りのいい話は良く耳にする。確かに私も、たまに日本に帰る際に入る風呂・温泉、和食(特に鰻)や四季などの日本独特な文化や自然を感じる瞬間について、以前より敏感に幸せを感じるようになったことは間違いない。しかしながら、実際により強く痛感したのは、イチ日本人として、どれほど自分が自国の歴史や文化に無頓着か、日本人の精神性を知らないか、そしてそれらを語れる言葉を備えていないか、ということである。日本に生まれた日本人として、日本が好きで、その魅力を他者に伝えようとしても、自分独自の見解を持てておらず、ツギハギな知識や誰かの意見をコピペしたような話しか出来ず、恥ずかしい思いをする自分がいた。

 

そして悲しいが私は例外ではない。同様のもどかしさを抱える日本人は当地にも数多くいる。三十数年も日本人をやってきて何故このような由々しき事態になっているのか、原因を考えてみる。

●圧倒的な学習不足・親しみ不足・興味不足

受け身の学習姿勢だった学生時代。自身の職業専門分野に関する情報収集や学習ばかりに傾注している社会人時代。諸悪の根源は、自身の学びに対する姿勢や、興味の間口の狭さあるだろう。

●外国や異文化とリアルに接する機会不足

思えばベトナムに来る前はずっと日本人コミュニティのみで生きてきた。中高も日本人のみ、大学でも留学生と接した機会は少なく、社会人でも仕事以外で外国人と積極的に関わった機会はほぼない。外国と日本との比較、異文化と自文化との比較等、自分事として自らを掘り下げた経験が少なすぎた。

●日本語能力の低下

通常は年齢に比例して、日本語の運用能力は上がるはずだ。しかし、テクノロジーの普及により、言葉や文字だけで意思疎通する必要のなくなった時代だからか(若しくはただの言い訳か)、悲しいかな近年ますます自身の放つ日本語に深みがなくなっていることを実感する。(LINEスタンプだけでコミュニケーションを代替してしまっている自分自身を戒めたい。)

 

上記は私個人に関する振り返りと考察であるが、一般的な三十代日本人代表といってもいい私に言えることは、大半の同年代の日本人にも当てはまるだろう。

 

今の世の中、特に若い世代やこれから生まれてくる世代は、生涯を日本で日本人とだけ接して終える人は多くない。多かれ少なかれ日本人以外を含む多様なコミュニティに身を置くことで、日本人コミュニティの中だけで生きていたら余りにも普通すぎて意識できなかった、自分が「日本人である」ことを認識させられる機会は多いだろう。そんな中、母国や自身のアイデンティティについてしっかり腹落ちして整理されていることは、グローバル化&多様化している世界において、他者や異文化理解の出発点としてだけでなく、何より、自分自身のルーツとゴールを見失わず、豊かな人生を送るためにも大切なことであろう。では、この現状を打開するためにはどうすべきなのだろうか。

 

結論は、「リベラルアーツの前に国語(日本語)の勉強からやり直す」、である。

 

本塾で紹介された統合智(リベラルアーツ)と専門智という対照概念についてだが、本塾が推し進めている様に、物事の本質を見る力や考える力の土台として、統合智の学習に重点を置くことは賛成である。無論、専門智を否定しているわけではない。実際、専門智は、分かりやすい尺度(点数や資格等)で測ることが出来、また職業専門性と直接リンクしているケースが多く、すぐに役に立つことが多い。とはいえ、所謂「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる」だ。反対に、統合智は、「すぐには役立たない風に見えて、実は一生役立つ」し、さらにはあらゆる専門智に厚みを与えるための根幹ともなる。今の日本の教育カリキュラムやビジネススクールは、この土台が無い状態の人間に専門智ばかり叩き込む傾向が強いので、高学歴や専門家であっても浅薄な人が多い状況にあるのだろう。

 

統合智という土台智のさらに根底には、母語(日本語)能力があると考えている。1本の木で例えると、「専門智=枝葉・実」「統合智=幹」「日本語能力=根・土壌」、といったところだろうか。頑丈な根っこなしに逞しい木や実は成長しない。そもそも母語である日本語に不自由する日本人は多く、最近ではTwitterの影響で5行以上の長文を読解することが出来ない日本人が増えているという話も聞く。そんな状態で統合智をいざ学ぼうにも、効果的な学習や成長は期待できないかもしれない。

 

グローバル人材を目指す者として、英語力が何より重要だと思っていたが、本質的に大事なのは日本語であったことを実感している。母語での思考や論理が中途半端であれば、例え外国語が話せても中身の薄い対話に留まってしまう。外国語は母語を超えることは出来ない、とはまさにその通りだ。

結論、世界で活躍する人間になるという大きな目標のためだけでなく、シンプルに自分の人生を豊かなものにするためにも、日本語ともう一度向き合ってみようと思う。

 

今回の日本のこころの本を読む際も、日本語なのに知らない単語に多々遭遇し、また毎回の意見提出の際、改めて自分自身の使える語彙や表現の少なさを身に染みた。そういえば学生時代の一番の苦手科目は国語だったことも思い出した。

 

本塾を通し、大人になった今から改めて国語学習が少しずつ習慣化し(小中学生向けの熟語やことわざの本を買ったりして再学習中)、渇きかけていた木の根っこに水やりを再開できていることは、幸せな人生を送る出発点として、良い糧になると信じている。


番匠友恵

1.私の課題認識

 日本人は外国、とりわけ西洋への憧れが強く、衣食住によく表れている。季節感や年中行事についても、正月の設えや桜や紅葉に心を奪われる日本文化のマインドは持ち続けているものの、私たちの日々の暮らしや経済活動は欧米の文化や慣習を取り入れることに積極的だ。

 食に焦点をあててみよう。クリスマスの他、ハロウィンやイースターなど、文化的背景に基づかない食文化が浸透し始め、日本の四季の移ろいに応じた室礼や食文化は日常ではなく、意識的に取り入れるものになってきている。

 

2.和食文化

 そういう想いから、7年ほど前から日本料理の板前である粟飯原崇光先生の教室に通っている。日本料理は、自然の移ろいの他、年中行事や文化背景、誰に提供するかということを事細かに盛り込んだ日本文化の美意識の結集である。学ぶにつれ食材の走り・旬・名残といった細やかな季節を感じられ、生まれ育った地方ではあまり食べることのなかった食材や調味料も使い始めるようになった。

 室礼や器と料理のコーディネートの面から、伝統工芸にも興味が湧いてきた。美しく見えるという以上に、機能的で理にかなった漆の器や曲げわっぱも日常使いしている。

3.これから

 日本における食の多様性には驚くばかりだが、和食文化は何より普段の家庭での食生活が大切である。普段から日本文化に対する感性を養うことで、日本人が長らく食を通じて築き上げてきた美意識を継承していきたい。

 家庭でできる小さなことになるが、今後の人生で以下のことを実践していきたい。

(1)毎月、自分にとって新しい日本の食材を使って和食の一品を作る。

(2)日本の年中行事や伝統に触れる為、毎月、室礼を整える。

(3)和食と室礼を発信する為のSNSアカウントを開設し、発信し、世界中の人と交流していく。


渡辺文隆

<近代から現代における日本人>

近代における日本人は強かった。開国から明治維新を迎え、当時の日本を強くしていくために改革や発展を推進する歴史に名を残す志高き人物が多く生まれ、日本の近代化や成長に大きく貢献している。

 

彼らは、決して自らのためではなく、日本という国のために命を懸けて改革を進めるリーダーで、そこに集まった人々にも同様に、利己ではなく利他の精神、つまり集団のために行動する哲学があり、それは古くから日本に伝わる道徳観からくるもので、自らを律し集団の力を最大化することが日本人の圧倒的な強さだと思っている。

 

この日本人の強さは小さな島国が戦後の高度経済成長を成し遂げ、経済をリードするまでに発展した要因でもあると考える。

 

<日本人のこころ>

西洋の洋に対して、日本は和と表現されることがある。例えば日本料理のことを「和風」と呼ぶなど、「日本」=「和」であり、集団社会を「穏やかに調和させる」ことで統制することが、これまでの日本の特徴であり強みであったと考える。

 

そしてこの「和」社会は、システム的なものではなく、道徳的なものであり、日本人のこころには、自らの利益を追及することが卑しく、逆にどんなに貧しくとも信念を貫き生きる美徳観が根付いているからこそ成立する、日本人にしかできない集団社会だと考える。

 

五感塾に参加させていただき報徳仕法を学んだが、この農村復興事業の特徴は、方法論だけではなく、そこに哲学が併せ持たれており、「分度」「推譲」の思想は、まさに日本人だからこそ通用した考えであり、恩が恩を生み集団が成長する最高の偉業だと感じた。

 

<これからの社会に向かう日本>

一方で、テクノロジーが発展し、集団が強みではなく、小さな力でも大きな変革を可能とするこれからの社会において、日本人としては以下の2つの方向性に向かうべきだと考える。

 

一つが、「日本社会が一つになる」ことで、地方創生による過度な東京一極集中からの脱却と、地方も含めた日本社会全体での一体感の醸成で、テクノロジーを活用した分散・循環社会を作るべきだと考える。

 

日本人の歴史は東京ではなく日本全国の地域にあり、その地域の歴史に日本に残すべき哲学がある。そしてその地域社会が繋がり、循環され一体となることが、日本がこれから社会で活躍するために必要なことだと思う。

 

そしてもう一つが、「日本のこころにより世界の諸国と集団社会を形成する」ことで、日本人がその道徳観や精神で世界に誇る集団社会を築いたのと同じように、この日本人のこころを世界に広げ、地球規模での「和」を築いていきたいと考える。

 

当然、世界の国々にはそれぞれの地域にカルチャーや思想があり、その異なる社会を「緩やかに調和する」なんてことは極めて困難だと思う。ただ、日本人のこころは、唯一神を信仰する宗教ではなく、様々な思想が融合された哲学に基づくものであるため、私はそれが可能なんじゃないかと、この自啓共創塾を通じて感じた。

 

そして、これまでの歴史で神仏儒融合の思想を築き上げてきた日本人だからこそ可能とする世界観であると考える。

 

<最後に>

私が自啓共創塾に参加したのは、不確実性が高まる今後の社会において、何かを決断することが求められた際に、拠り所となり支えとなる日本人としての原点を学ぼうと考えたのが理由の一つでしたが、それ以上の気づきと学びを与えていただけたことに感謝いたします。